旧・福江教会史  (1976年)

 

福江教会

 

神のみ言葉によって集められ、キリストによってあがなわれ、聖霊にみちびかれ、神に仕えながら永遠のみ国をさして旅する新約の民教会は、キリストの代理者であり全教会の見える最高の頭であるペトロの後継者ローマ教皇と、使徒の後継者司教によって司牧されている。司教は常に教皇と一致して自分の部分教会(教区)の司牧統治権者であると共に、他教区と全教会とも結ばれ、その発展に配慮をはらうものである。勿論、司教の司牧統治権は自教区のみに限られる。(教会憲章18・23)

 更にこの教区は個々の地区に区分され、その各小地区には一定の信徒数を有する固有の教会が定められ、それぞれ霊魂の司牧のため固有の牧者、特別の主管者が任命されている。この教区内の小地区を小教区と呼ぶ。(教会法第216条 第1項、第2項)

 小教区には管轄区域が規定されているのでその区域内に居住する信徒はその小教区に所属する。

 長崎教区は現在65の小教区に分かれ、それぞれ大司教の任命による固有の牧者(主任司祭)を有し、主任司祭は司教の助手、協力者として司教の権威のもとに、委ねられた信徒を司牧している。司教を離れた小教区も主任司祭もあり得ない。

 教会法に基づいて小教区には各信徒の名簿、洗礼、堅信、結婚等諸秘蹟の授与、死亡、埋葬などが記入される帳簿が備えられていて事務的仕事がなされているため法的存在の面もある。しかし小教区の本質的な面は小教区がその地域にある神の教会、キリストを中心とする信徒の救いの共同体、神の家、神の家族、教区の細胞、全教会と結ばれている神秘的存在であるということである。小教区は救いを求めるものの共同体であり、信仰を深め自分を聖化する場、神との交わりの場、更に信徒が外部への福音宣教のため社会に向かって出発する場でもある。

 小教区がかかる性格に添って使命を果たしていくためには小教区全員兄弟姉妹として一致し、共同体の責任を自覚し、なお他小教区とのつながりを強めながら前進しなければならない。その意味でここに発刊の運びとなった福江小教区史に見られる小教区の誕生とその発展に努力した先輩たちの美わしい姿は福江小教区の信徒に大きな教訓と励ましの源泉になるのではないかと思う。

 終わりに小教区史の編纂に尽力された方々に深甚の謝意を表明し神の祝福とお恵みを祈る。

 1976年3月15日

        福江教会

                 主任司祭 岩永 薫

 
 
 

ポルトガル人、種子島に上陸

1543年(天文12年)

 ポルトガル人が難船して種子島に漂着した。

  注 1543年 コペルニクスの地動説

 

フランシスコ・サベリオの来日

1549年(天文18年)8月15日

フランシスコ・サベリオが鹿児島に上陸した。

注 1553年 川中島の戦。

     1557年(弘治3年)アルメイダ修士、府内に日本最初の病院開設。

    1559年(永禄2年)ヴィレラ・ロレンソ修士、京都に上り教会を開設。

1560年(永禄3年)ヴィレラ、将軍足利義輝に謁見布教の許可を受く。

    1560年(永禄3年)桶狭間の戦。

 

修士アルメイダとロレンソ初めて五島にキリスト教を伝える。

1566年(永禄9年)

アルメイダとロレンソの来島を喜んだ領主純定は、その重臣たちと共に教えを聞き非常に感銘し、教会を建てる地所を提供したり、建築資材の補助を与えるなどの好意を示した上、洗礼を望んでキリシタンになる者にはそれを許し、異教の祭には、強制的に加えないことなどの特典を与えた。これによって重臣たち25名が洗礼を受け、奥浦でもまた、120名が洗礼を受けた。奥浦には仏教のお寺(永林寺?)があったが、村人たちは殿の許しを得て、仏像や仏具などを他に移して教会風に改造し、ここで熱心に教えを学んだ。やがて奥浦に教会が建ち、続いて福江の城下にも教会が建てられた。これが即ち、五島最初の教会であるが、その地所がどこであったかについては、共に頼りになるような史料が残されていない。しかし、言い伝えによると前者は、奥浦村平蔵郷字烏帽子瀬、後者は安養寺川の北東か、頴川町であったろうと五島編年史はのべている。

 注 織田信長、宣教師の京都在住と布教の許可を与えた。

  大名の洗礼について

1562年(永禄5年)大村純忠洗礼

 1578(天正6年)大友宗麟洗礼

 1580年(天正8年)有馬晴信洗礼
 

純堯(すみたか)の受洗

1567年(永禄10年)

 領主純定の庶子純堯(当時23才位で、後、純定についで十九代領主となる)は、一夜ロレンソの説教を聞き非常に心動かされ、その後も熱心に教理を学び、モンチ神父に洗礼を申し出で同時に殿にもその許しを願い出た。封建制の強かった時代だけに、一族の中にはそれに反対して妨害を図ったこともあったが、熱烈な彼の信仰心を止めることは出来なかった。彼はパプチスタ・モンチ神父によって受洗し、霊名をルイスと言った。これより後、彼が領主であった時を含めて12年間、35才の生涯を終わるまで、信徒の模範となる働きを続けた。

 

アレッサンドロ・ウァラレッジョ神父の布教

1568年(永禄12年)

モンチ神父に代わってアレッサンドロ・ウァラレッジョ神父がゴザルウェス修士と共に五島に来て布教し、180名、600名、400名、500名と次々に洗礼を授けた。ルイス純堯の夫人もその待女15名と共に洗礼を受け、霊名をマリアと言った。それと前後して家臣100名も洗礼を受け、次第にその数を増していった。

注 1569年(永禄12年)長崎に最初の教会開設

 

○六方の教会

1571年(元亀2年)

 六方に教会が建ち、三博士に捧げられた。この年ウァラレッジョ神父は五島を去り、パウロ養方軒が来島し700人の信徒を司牧した。

 

○ガスパル・クエリオ神父の来島

1572年(元亀3年)

ガスカル・クエリオ神父が来島し、数名の人を改宗させた。

 

○ドン・ルイス純堯(すみたか)の死

1579年(天正7年)

 十九代の領主となった純堯は、いよいよ徳を積み、模範的な信徒として、数々の善政、善行をなした。彼の清廉潔白、慈愛に満ちた行いと人柄に習って武士も庶民も次々に洗礼を受け、五島キリシタンの全盛期を迎えた。しかし、惜しくも35才の若さにて帰天した。その墓所は菩提寺大円寺にはなく、清浄寺に夫人マリアの墓と共にある。叙任がなかったのはキリシタン信仰のためと言われている。

注 1582年(天正10年)遣欧少年使節出発。

     1585年(天正13年)少年使節教皇グレゴリオ十三世に謁見す。

 

  ○キリシタン迫害起こる。

1586年(天正14年)

 純堯の没後は、先に病弱のために一旦隠退した純定が再び領主となったが、

その死後は、純玄(すみはる)が二十代の領主となったが、純玄は幼少であっ

たのでその叔父(盛重?)が後見役についた。この叔父はかねてから、大のキ

リシタン嫌いであったので、この時とばかり、己の権力を利用してキリシタン

を禁じ次第に迫害を強めていった。

  注 1587年(天正15年)秀吉、日本全土にキリシタン禁止令を出す。

     1590年秀吉、天下を統一す。

             遣欧使節活字印刷を伝える。
 

○殉教者

五島の多くの殉教者のなかでカリストとミゲル、それに聖ヨハネ草庵の3人は、代表的な殉教者になっている。教会の看坊(教会にあって祭式の世話や、雑務をなし、布教の手伝いをする人)であったカリストが五島盛利の弾圧によって斬首された。1624年(寛永元年)4月29日であった。日向の生まれで豊後で洗礼を受け、27年間五島で働いていた。殉教地は上五島若松から一里ばかりのタブト(高仏)である。刑場で友人たちに別離の手紙をしたため、晴れ着を着用して斬首された。57歳。同日、福江島では土地の生まれであったミゲルが斬首された。二人の役員が領主盛利からつかわされてミゲルにキリシタンの捨てるように命じられた時、「私はそれがよいこととは思いません」と答えた。「それでは死刑になる」と言うと「その方を喜んで受けましょう」と言い、急いで家に帰り晴れ着をつけても戻ってきた。殉教のとき72歳。かねてほうぼうを飛び歩きながら、幼児に洗礼を授け、臨終の病人をいたわり励まし、死者を葬り、人々に率先して祈りをし、すべてのことで人々に奉仕していた奇特な老人であった。(片岡弥吉著、「長崎の殉教者」)ところで、五島の光栄になっている最も有名な殉教者は26聖人の一人ヨハネ草庵であろう。彼は1597年(慶長2年)長崎西坂の丘で殉教した。彼はルイス純堯が領主であった天正8年頃、五島のある島にて生まれたとあるがその島がどこであったかはわかっていない。

フロレスの「26聖人殉教者」によって、詳しく紹介する。

 

   注 1598年 秀吉死す。

      1600年 関が原の戦。

     1616年 ローマの宗教裁判、ガリレオ。

     1637年 島原の乱。

     1687年 ニュートンの引力発見。

 
 

○第一期五島キリシタンの終末

 純玄が征韓の役の陣中で疱瘡を煩って死んだ後、玄雅(はるまさ)が二十一代の領主となった。玄雅はルイス2世と言われた程の熱心なキリシタンであったが、のち背教して迫害者となった。ひところ2000人以上もいた五島のキリシタンも、武士の多くは征韓の役に倒れ、他の大部分は貧しい農漁民で、藩内での厳しい迫害の連続に耐え兼ねて各島々に散亡した。その間、島外追放を受けた神父や修士たちは、あらゆる悪条件を克服しながら島内に潜行して、信者たちに力を与えてはいたが、厳しい禁教令下の迫害のさ中では、その努力にもおのずと限界があった。このような日が続き月が重なるにつれて五島でのキリシタン信仰は次第に守りづらくなっていった。その上、1667年(寛文7年)からは踏絵も五島藩の年中行事として行われ、迫害の嵐はいよいよ厳しくなっていった。このような状態で、さすがの五島キリシタンも、各地に多少の伝説は残されてあるにせよ、何らの遺跡も証拠書類も止めぬまでに壊滅して仕舞ったと、浦川和三郎著の五島キリシタン史は述べている。

  注 1622年(元和8年)8月5日、長崎にて55人殉教

 

○五島キリシタンの復活。大村領外海地方のキリシタン五島各地に移住す。

1797年(寛政9年)

 時の五島領主、盛運(もりゆき)は領地開発のために、大村家に農民の移出を懇請した。これによっていち早く大村の農民108名が、その年の11月28日、六方の浜に上陸し、直ちに奥浦村の平蔵、大浜村の黒蔵、岐宿村の楠原などに居付いた。その頃大村藩では、キリシタン迫害が行われていた上に、人口政策の上から、出生児のまびきが行われていた。それを苦にし、それを嫌っていたキリシタンたちが、信仰の自由と出生児の安全を求めて五島への移住に憧れたことがおのずとわかって来る。

 「五島へ五島へとみな行きたがる

  五島はやさしや土地までも」

と外海地方で唄われたのもこの頃であった。

 この移住はその後たびたび行われた他に先着の居付きの者の手引きによって次々と来島し、奥浦村では浦頭、大泊、浜泊、堂崎,嵯峨瀬、宮原、半泊、間伏などに、また久賀村では上ノ平、細石流、永里、幸泊、外輪、大開に、その他北魚目の仲知や島の首など、信者側の口伝によると、五島藩から千人の移民申し入れにに対して、3千人ものキリシタンたちが五島に引っ越して来たと伝えられている。このようにして、大小幾十の五島の島々には、上は野崎島から下は嵯峨ノ島に至るまで、苟も拓く土地のある所、船を繋ぐ余地のある所は吾がちにと割り込んで行き、ここに2軒、彼処に5軒と、いたる所にキリシタン部落がつくられていき、五島は再び、大村外海地方からの移住居付によってキリシタンの島となった。後年、キリスト信者のことを「居付者」と言ったが、ここからこの言葉が生まれたようである。

注 1798年 近藤重蔵が択捉島に「大日本恵土呂布」の標柱を建てる。

1800年 居能忠敬が蝦夷地を測量する。

   1804年 ナポレオンが皇帝となる。

   1807年 フルトンの汽船の発明。

   1814年 スチブンソンの汽車の発明。

   1846年 日本牧区復活、フォルカード教区長となる。

   1853年 ペルー浦賀に来航。

   1858年 踏絵廃止。ルルド聖母出現。

   1862年 日本二十六聖人列聖。横浜に再布教最初の天主堂建つ。

   1862年 大浦天主堂完成。プチジャン神父、大浦天主堂において浦上信徒発

見。

   1867年 この年の2月、クゼン神父により五島鯛の浦にて始めてのミサ。

ノーベルによるダイナマイト発明。王政復古。

 

  
   
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