第2代主任司祭 出口一太郎

 

  司祭生活44年で帰天

 前鹿児島教区長フランシスコ・ザベリオ出口市太郎師は2月15日胃がんのため帰天された。

 出口師は、大正3年叙品された後、玉之浦、堂崎、飽の浦、各小教区の主任司祭を歴任、昭和15年山口司教の後を受けて鹿児島教区長となり、昭和30年里脇司教様の御着座まで16年間、鹿児島教区司牧の大任にあたられた。御辞任後は長崎教区に帰られて北松加勢教会を司牧されていたが、昭和33年2月はじめ、長崎聖フランシスコ病院に入院。病状が悪化したので11日司教館に移り、翌12日長崎医大病院で受信、13日入院されたが14日容態が急変、午後9時35分帰天されたものである。

 遺体は司教館に安置されて司祭、修道者、信者たちがこもごも祈りを捧げた。17日、浦上天主堂で葬儀、9時5分司祭たちが「死者の聖務日課」をとなえ、9時30分山口司教様司式の追悼荘厳ミサ、終わって司教様は、44年の司祭生活中の功績をたたえられ、殊に最後まで天主のみ旨に完全に服しつつ淡々として司祭の一生を終わられた、その司祭徳をたたえる説教をなさった。その後赦祷式、浦上赤城の聖職者墓地に埋葬された。葬式には、市内外の司祭40名、各修道会の男女修道者、信者が多数参列、鹿児島教区から田原章師ほかラサール会の大友修道士、純心聖母会の中田院長が参列された。(カトリック教報、昭和33年3月1日)

 
 
 

鹿児島教区長選任

  現飽の浦教会主任 出口一太郎師が栄進

鹿児島教区は山口司教の長崎教区長就任に伴い同司教兼任のまま今日に至った。地理的関係からのみ言っても、専任教区長の任命は各方面の要望するところであったが、このたび現長崎市飽の浦教会主任出口一太郎師が6月15日付をもって鹿児島教区長に任命された。師のごとき有力者を失うことは司祭不足に苦しむ長崎教区にとって大きな痛手であるが、鹿児島教区の布教陣が師の就任によって充実されることは教会のため慶賀に堪えない。識見高邁、人格円満な師を迎えて多難を伝えられる鹿児島教区も面目を一新するものと期待されている。(カトリック教報、昭和15年7月1日、第281号)

 

「慈恵院経営の思い出」を語られる新教区長

 出口師を訪ねて新教区長に栄進の喜びを申し上げ師が長崎教区29年の在職中、最も意をもちいられた奥浦慈恵院について感想をお願いすると、慈恵院のことについては私からあまり申し上げたくないのですがと謙遜して次のように語られられた。「宣教師達が始めて五島に渡って、一番心を痛めたのは、一般島民の間に育児上人道に反するような風習が行われていた点だと言われます。これをみたマルマン神父が一民家を借り受け、村の篤志な娘たちを集めていくじ事業に手を染めたのが慈恵院の起こりです。明治15年頃かと思います。

 私が福江教会に赴任した昭和6年に、財団法人となし会員も24・5人を数えていましたが、すべての設備が粗末で専門の育児法を心得た会員がいる訳ではなく、種々の点について不利不便を感じていました。それでも都会から懸け離れた貧村でか弱い女達が献身的に営んでいる点を認められて御下賜金や助成金や補助金を賜り、今日では社会事業として一般から認められるまでになりました。

 しかしだんだん同種事業が各種団体によって経営されるようになりましてからは、当院収容児の死亡率が高いとの非難を聞きまして、専属医師の必要を痛感し、種々の困難にぶつかりましたが、ようやく会員中から一人の女医を出すまでになりました。それまでは、サン・モール会の童貞達や当時双葉高女在職中の現純心高女の江角校長にはすくなからぬご援助を戴き感謝しています。ここ2・3年には、も一人会員の女医ができるはずです。

 なお同会は、会員が汗みどろになって蓄えた数千円の資金を投じて福江町に支部を設け、育児費獲得のため精米所を開いています。

 会員が犠牲と一致の精神を持って励むならば、同会の事業は必ず祝福されるでしょう。

 
 

昭和30年、鹿児島教区長を退任された出口師は大加勢教会で司牧された。第一線を退いても毎日のミサ、堅信のけいこなどの指導を元気に果たされた。その話は巧みで聞く人に感動を与えた。仕事以外はよく祈る人だった。聖体訪問を何よりも大切にされ熱心にロザリオを唱え、信徒によき模範を示した。炭鉱の斜陽化で信徒数が激減し始めたときであったが、転出する信徒にも残留する信徒にも激励を与えた。(褥崎128年、褥崎沿革史p206

 

出口神父さま大加勢時代の思い出(大佐志教会、山浦久雄)

 鹿児島教区長を辞任され、大加勢教会に赴任され司牧にあたってくださいました。

 教区長をなさっただけに堂々としておられ、物事に動じない所があられました。あるとき、鹿町町より招魂場に置いて戦没者の合同慰霊祭を催したいと申し出がありましたが、私は他宗教との合同では慰霊祭は致しかねる。私は私で教会でいたします、ときっぱり断られました。

 よい悪いは別といたしまして唯一神教の断固なる信念だと私なりに感心致しました。

 神父様は教育にも熱心で子供の公教要理の勉強にも力を入れてくださいました。

 聖歌の練習では私らが間違っていますと、司祭館より出てこられ、それは間違っていますシベモルです。またはラベノルです。(フラット、シャープ)と間違いを指摘してくださいました。

 たまに司祭館を訪ね、神父様のお話を聞かせていただきました。

 主日のごミサ中、説教の中で私はこれほど尽くしているのに、信者がついてこないという意味のことを申されました。丁度堅信の準備中だったのです。

 神父様は体に悪いところでもあられるのではないかと心配しておりますと数日後入院とお聞きし心配が的中しました。入院される朝、神父様を見舞いますと、「君がもう少し早く着てくれたらよかったのに、頼みがあった」と申されます。「なんでしょうか」と尋ねますと「食事が通らない為、ブドウ糖とビタミンの注射液が欲しかった」と申されます。

 早速、日鉄病院の先生にお願いして箱一杯いただいて神父様に渡しました。長崎の病院まで注射しながら行かれたということでした。

 神父様は病苦の中でも祈りを捧げ、看病にあたっておられた妹シスターが、「何か行ったか?」と聞かれると、「いや、ただ祈っている」と答えられ、「私ですらこんなに苦しんだ者、信者さんはさぞ苦しいだろうね」と申され、その祈り声が絶えられた時がご帰天だったとお聞きいたしました。

 出口神父様をはじめて拝見しましたのは、1947(昭和22)年、二十六聖人250年祭の公式記念ミサが浦上天主堂で行われた時、鹿児島教区長としてご出席のときでした。

 思い出は次から次へ、懐かしく思い出されます。(褥崎128年、褥崎沿革史p268

 
 

奥浦修道院の改革

(1)慈恵院と女部屋の合理化

マルマン師によって創設され、ペルー師によって引き継がれた「養育院」は、「女部屋」の人たちの献身的な、キリストの愛の奉仕によって発展し充実していった。

彼女たちは、育児の傍ら畑を耕し、麦、芋、野菜などを栽培し、磯ものを取って食料を確保しながら、養蚕や機織り、行商によって養育費を稼いで「養育園」を助けた。

1909(明治42)年911日、「養育院」は、「奥浦慈恵院」として、財団法人の認可を受けた。

1918(大正7)年3月、堂崎小教区の主任司祭として着任した出口市太郎師は、小教区の司牧の傍ら修道院と奥浦慈恵院の発展に力を注いだ。

 「奥浦慈恵院」の院長を兼務していた出口師は、虚弱な子供のために病院へと頻繁に走り、また出生環境の劣悪から育ちにくい子供たちのために、日夜悩む会員たちの姿を見て心を痛めていた。

出口師は、1920(大正9)年2月2日、堂崎伝道学校を卒業した木口マツに奥浦修道会への入会を勧めた。入会したマツは、4月より五島唯一の県立五島高等女学校に編入、小学校の准訓導の資格を取り、2年後卒業すると、その年の10月、埼玉県の社会事業職員養成所で、3ヶ月の研修を受けた。研修では社会問題、児童保護感化教育、防貧事業、救済事業、基礎科学一般の講義を受けた。

自分たちのやっている養育事業の社会的意義について学習したマツは、慈恵院の現状に多くの改善すべき点を見出した。例えば、当時、慈恵院では米の粉を煮て練ったものに砂糖を混ぜて幼児に食として与えていた。経費の面もあったが栄養学の無知からだった。また、朝、ミサから戻ると食事もそこそこに職場に散り、夜遅く帰ってくるの繰り返しで勉強はおろか本を読む暇もない。養育事業の社会的責任を思うとき、知らないではすまされないと思った。先ず、正式な保母の養成が必要だった。そして専属の医師が求められた。マツは大正121月、「奥浦慈恵院」の評議員と書記に就任。7月には理事、同時に院長補佐を務めることになった。

 女部屋の日課が定められ、祈りと労働と勉強の時間が配分された。会員の石山スエを長崎医科大学の信者の小児科医に託し、保母としての訓練を受けさせた。出口師の指導のもと、木口マツは養育と女部屋の合理化を目指して改革をすすめた。

(2)医師の養成

会員の中から医師、看護婦の養成の必要性を考えていた出口師は、1926年(大正15)年、堂崎伝道学校卒業を目前にした浜端タカに入会を勧め、静岡の不ニ女学校に通わせ医師を目指させた。

 医師養成のための資金作りがはじめられた。1928(昭和3)年3月、浜崎ソメが助産婦の資格を取得すると石山スエと共に、福江教会の敷地内に助産院を開業させた。

 敷地内に精米所があった。出口師は、ペルー師の遺産を投じてこれを買い受け、1929(昭和4)年3月に精米所を開業させた。慈恵院から5名の会員が派遣されて、奥浦慈恵院福江分院が設立された。

精米所は、女性にとって大変な重労働であったが、評判が良く繁盛し多くの収入をあげた。昭和恐慌の中、慈恵院の苦しい経営を助けてきた精米所は、1955(昭和30)年、「聖マリア病院」が認可され閉鎖された。

 浜崎(浜端より改姓)タカは1930年に東京女子医学専門学校に合格した。同年3月、妹のミサヲも姉の後を追って入会した。       

出口師は私費を投じて、修道院の新築および慈恵院の整備拡張を行った。1927(昭和2

年1月工事を始めてから、1930(昭和5)年工事が完成するまで、3年の月日を要する大工事であった。

1931(昭和6)年11月、出口師は飽の浦教会へ転任となったが、1936(昭和11)年1025日、浜崎タカは、出口師が増築した慈恵院の一室を改造して奥浦診療所を開業した。

出口師が計画した修道者の医師養成は、10年目に実現した。

(お告げのマリア修道会誌・礎、お告げのマリア・小坂井澄)

  
   
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