第13代 浜崎渡師

 
 

カトリック教報   1989年 平成元年 41日)  (第743号)

叙階式にあたり、これを祝う        浜崎 渡 神父

270有余年に及ぶ迫害・弾圧の嵐に耐えて、信仰復活の曙光を仰ぎみた我が長崎大司教区の歴史に、画期的意義をもたらしました、長崎の『キリスト信者発見』の記念すべき124年前の317日、キリシタンのみ親たちの偉大なる信仰の証の、ゆかしくも偲ばれます今月今日、私共は、3人の教区司祭、2人の修道会(コンベンツァル聖フランシスコ会)司祭、5人の教区助祭の誕生という、この上なき喜びに満たされるものであります。

 神の民と共に、主キリストの、み教えの真理にして、救いのみ業のとうときを証する新司祭の誕生によって、我が長崎大司教区の信仰の歴史は、さらに輝かしい一項を飾るに至りましたことを、声を一つにし、心を同じうして、神の計りがたき御摂理を賛美し、且つ感謝いたしますとともに、主キリストの忠実なる信者の使命達成に、ますます精進するとの決意を、新たに致したく思うものであります。

 申しあげるまでもなく、 主キリストの司祭職は、父なる神のみ旨により、人となって人類の救いを使命とされる主キリストの御託身に、その源を発しておりますが、ナザレトにおける30年の、祈りと労働の明け暮れの後、3年間の公生活に入られた主の、最初の大きなお仕事はと言えば、福音宣教もさることながら、弟子たちの召し出しであり、使徒たちの養成でありました。

 『空の鳥には巣あり、山の狐には穴あり、されど人の子には枕するところなし』と仰せられる程の、多忙な宣教活動の結果は、十字架上の御死去につながりましたが、かねての予言の如く、栄光の復活によって人類救済のみ業を完成されました主キリストは、その証人として使徒たちに、全地の面に行って福音を宣べ伝え、信じる者に洗礼を施し、救いにかかわる種々の掟をすべての人に守らせるよう命じられました。使徒たちは、宣教の旅に生涯を貫き、いたるところに教会を建て、殉教をもって主の証人としての使命を忠実に全ういたしました。

 使徒たちに付与された教会における機能と使命は、教皇はもとより、各地の司教にそれぞれ継承されて今日に至っているものでありますが、司教のもとのあって、その聖なる役務を執行する司祭は、主キリストによって、主キリストにおいて、主キリストとともにいけにえを献げ、礼拝、感謝、贖罪、祈願の聖なる務めにいそしみ、秘跡を執行しては救いの恵みを神の民に分配して、魂の聖化を図るほか、神の民の祈りや犠牲、奉献、神の祭壇に運び、罪のゆるしを願い求めるなど、神と民を結ぶ仲介者の任務にも服するものであります。

 加えて、司祭の栄誉であり、すがすがしい特徴ともいえるものは、心身ともに清浄なる独身を守って、生涯を主キリストと教会に委ねることにほかなりません。然しながら、司祭も人間であり、幾多の不足、欠点を身に負うものであります。その生涯におけるさまざまな試練や艱難もまた、少なくないことは、経験上明白な事実であります。

 どうか、司祭の力強く、また頼もしい協力者である信者皆様の、霊肉上のうるわしい御支援と御鞭撻によりまして、本日、主の祭壇に上がりました新司祭が、その生涯の終わりまで、誠実と忍耐をもって、司祭職の本分と栄誉を全うすることができますよう念じ申し上げますとともに、今後一層のお祈りを賜りますようお願い申し上げます

 
 

水の浦修道院100周年記念誌より(抜粋)

○浜崎神父と園舎の焼失

 昭和28年11月5日には佐世保三浦町助任のペトロ浜崎渡師が、17代目主任司祭として着任された。

 浜崎師は26歳の若さで最初の主任司祭司牧地水の浦小教区地「聖ヨゼフ院」の指導に着任早々から熱情を傾けられた。浜口師の時始められた「聖ヨゼフ院」独自の修練制度に賛同し、そのまま続けてご指導くださった。内面的な指導に留まらず、修道作法に至るまで厳格に指導教育を与えられた。

 修練者の養成に限らず、会員全体の養成、霊的向上を図って、毎週2回の霊的講和と一般教養の勉強の時間を設けてくださった。修道者として必要な基礎的な教養、知識に乏しく、一般的教育の機に恵まれなかった会員達、特に若い会員たちを中心とした勉強であった。「修得神秘神学」「教会史」「ラテン語」などで、一般教養科目としては、「国語」「礼儀作法」等の授業が交互に夜8時〜約一時間、年間どのような季節にも時間厳守で行われた。麦たたき、田植え、芋植え、稲こぎ、芋掘り等、農業最盛期の農繁期中であってもこの授業は変更、中止されることはなかった。浜崎師の熱心な指導方針に従って、会員たちも、講和の火曜日と木曜日には8時に間に合うようにどんなに忙しくても仕事を工夫して全員が参加した。その頃の生活は農作業の仕事ばかり明け暮れていたので、特に修練者と若い会員達にとっては、こうした霊的および一般的教養、勉学は心身の活性剤となり、却って一日の疲れも忘れて熱心に励んだものである。

 神学講座、通信講座、研修会等何一つ勉学、修養のチャンスのない時代、若者たちにとっては、週2回の夜の講座は唯一の楽しみであった。浜崎師は勉強を励ますため、粗末なノートしか持たない会員たちに、その当時には全く珍しいバインダーを与え、ルーズリーフに講義を筆記させたが、こうした勉強法は聖脾姉妹会の修練の時、大いに役に立ったのである。

 浜崎師の霊的講座はその後、昭和31年10月、「聖脾姉妹会」として統合される時まで約3カ年間、修練指導と共に続けられた。

 浜崎師の会員指導の中で、「修練者の慎み」については徹底した教育をされた。昼の聖体訪問の時、たとえ作業や畑から帰っても素足で聖堂に入ることを禁じられ、真夏でも腕を出さないようにといわれた。

 いつでも、どこでも、働き着、普段着を問わず長袖を着用するよう命じられた。会員達は慎みのため忠実に実行した。浜崎時代、姉妹たちは着衣式を機に、全員が修道名をもらった。若い者も年取った者も区別なく、一生変わらない修道名は、呼ばれるたびに修道者の身分を自覚させられたものである。

 この修道名は、聖脾姉妹会時代も修道院内ではずっと使用され、お告げのマリア修道会となり、シスター○○と呼ぶ事になるまで続いた。

 

 楠原教会は教会のすぐ上に楠原光幼児園の園舎を昭和27年3月新築していたが、浜崎神父様は着任後、3ヶ月も経たない昭和29年1月25日暖房用の木製大火鉢の火の不始末のため残念ながら焼失してしまった。通報を受けた浜崎師は、楠原教会の御聖体を案じ、当時は徒歩での巡回時代だったから、水の浦から城岳峠を飛ぶようにして駆けつけられた。(水の浦から楠原への城岳峠の山越えは、人がとおるのがやっとの山道で坂が急で、めったに人は通らず、土が水に流され石がごろごろしていて難儀だったため、急がない時は、岐宿から迂回していた。夜道はなお難儀である出火の時間は何時頃だったのだろうか?)
 
 

苦難の時代に産声     

公教神学校        長崎公教神学校校長     浜崎 渡

一、新学校の沿革  (イ)創立   1865317日は、日本カトリック教会にとって忘れられない、「キリスト信者発見」の記念日ですが、この年の128日、すなわち、「無原罪の聖マリア」の祝日直後に浦上キリシタンの信仰の先達と、後々の世まで語り継がれる、高木仙右衛門の2人の子供、敬三郎と源太郎が、司祭志願者、つまり神学生として召されたことにより、今日の公教神学校は、迫害の余燼もまださめやらぬ苦難の時に、産声をあげたのでした。

 今さらに申し述べるすべもなく、キリシタンの発見と復活は、徳川幕府250年の封建制度を引き継いだ明治新政府の方針と政策に基づく、キリシタン弾圧と迫害の歴史のさなかでありました。

 開港と交易を迫ってやまない諸外国の前に、やむなく鎖国を解禁した幕末の日本には、多くの外国宣教者が渡来いたしましたが、とくにローマ教皇の要請により、300年に近いキリシタン禁教、迫害、弾圧の嵐のために、滅び去ったと思われるキリシタンの子孫を探し出すために、パリー外国宣教会の司祭たちが、横浜と長崎を拠点として、ひそかに活動を開始したものでした。

 このパリー外国宣教会の司祭の一人、ベルナルド・タデオ・プチジャン師は、長崎に派遣されて、大浦の天主堂を創建するかたわら、日夜、かくれひそむであろうキリシタンの子孫との邂逅を願って、涙ぐましい努力を続け、かの有名なキリシタン発見の喜びを、新装の大浦天主堂で味わうにいたりました。

 やがて復活キリシタンの父と慕われ、日本カトリック教会の再建・復興の大使命を負わされたプチジャン師は、ローマ教皇より、日本初代の代牧司教に任ぜられ、潜伏キリシタンの信仰教育と、新信者の獲得をめざす宣教の最高責任者として、日夜骨身を砕く労苦を強いられながらも夢の間にも念頭を去らない深刻、切実な課題がありました。それが神学校の創設であり、また神学生の召出しとその教育でありました。
 
 

(ロ)神学校舎設置と神学生養成

明治6年になって、キリシタン禁制の高札が取り除かれ、一応の信教の自由が、日本政府によって保証されるまで、迫害での不穏な情勢からのがれて、長崎や横浜で召出された神学生たちは、ピナンや香港などで苦しい生活と流浪の旅を余儀なくされ、禁教令の撤去により、日本に帰りましたが、正規の神学校教育をうける設備に欠けていました。そこでプチジャン司教は、全国から集まって来る若者たちのために、共同生活のもと、徹底した神学生教育の場として、神学校を設置いたしました。時は明治8年、今なお、国宝大浦天主堂に向かって右側に、その堅牢さを保ち、質素なたたずまいを見せる4階建ての校舎がそれで、キリシタン発見より、奇しくも10年の歳月が流れ去っていました。

 

(ハ)司祭誕生とプチジャン司教の逝去

長崎にはもちろん、横浜、大阪、函館に司教座を設置するゆるしを得たプチジャン司教は、晩年を長崎で過ごされましたが、それは、自ら発見したキリシタンの復興・発展を見とどけるとともに、長期にわたる流浪の旅から解放されて、ようやくおちつきを見いだした神学生たちの養成・教育を、確固不動のものとするたでした。

 プチジャン司教が手塩にかけて保護し、また教育された3人の神学生(深堀、高木、有安―最初の神学生・高木兄弟の兄慶三郎は香港で病死享年23歳)を、キリシタン復活後の最初の司祭として叙階されたのは、1882年(明治151231日のことでありました。陣痛の苦しみの中に3名の司祭を誕生させた司教の、涙に袖をしぼりながら、喜びにむせばれた光景がしのばれます。しかしながら気丈さと、底知れぬ熱情で奮闘し続けられたプチジャン司教も、過労と病に倒れ、1884年(明治17107日、永遠の安息に入られました。享年55歳、まことに惜しいおいのちでした。かくてプチジャン司教は、自ら建立された大浦天主堂の祭壇近くに葬られ、長崎大司教区はいうまでもなく、日本の全教会と天主堂の側に建つ神学校を見守る如く、今なお粛然としてわたしたちのために祈り続けておられる心地がいたします、神学校の創立者プチジャン司教の逝去以来、早や97年の歳月が流れ去っていますが、しかし、最初の司祭にあげられた者と、神学生一同に遺言された教訓は、そのまま今日の神学生への教訓であり、わたしども司祭職を志す者の指針であることを信じて疑いません。すなわち「祖先の信仰に倣いなさい、長い迫害の中で信仰を守る力を与えて下さった神さまに感謝しなさい」(旅する教会―長崎邦人司教区創設50年史―より)(つづく)

カトリック教報    昭和5771日    (第669号)

 公教神学校の歩み(二)     教会の発展・復興に尽力

―邦人司教・邦人司祭―     長崎公教神学校校長   浜崎 渡

 
 

二、パリー・ミッション会による宣教・司牧の時代

(イ)邦人司祭の相次ぐ誕生  プチジャン司教の没後、その後を追うかのように、ローカニュ補佐司教(18841885)も永遠の旅路につかれましたが、明治9年(1876)以来、南維代牧司教でありましたプチジャン司教の後任には、クーザン司教が選ばれ、明治18年(1885)祝聖されて、長崎に着座するに至りました。

 明治21年(1888)南維代牧区は、長崎と大阪に二分さあれるに及び、クーザン司教は、長崎教区司教としてとどまり、九州全域をその管轄教区としていましたが、在位26年間(18851911)に、9回の叙階式を挙行して、30数名の司祭を誕生させています。

 このうち、クーザン司教による最初の叙階式(明治202月)で、司祭となったものの中に、香港留学というよりも、香港流浪の旅に、幾多の辛酸をなめた島田喜蔵師やクーザン司教司式3度目の叙階式(明治 302月)で司祭となり、奄美大島で宣教・司牧に従事すること26年ののち、ローマ教皇庁の要請により、日本人ブラジル移民教化のため、故国日本を去って18年、文字通りブラジル移民の慈愛深い師父の使命に殉じて、彼の地に骨を埋めた中村長八師の業績は、まことに偉大なものでありますう。

 また明治397月、クーザン司教による8度目の叙階式で司祭になった浦川和三郎司教は、下五島、水之浦教会に3年間司牧ののち、30年の長期間(19101940)にわたって、母校、長崎神学校教授の任務に専従し、昭和3年(1928)より12年間を、神学校校長、兼、長崎司教区総代理の重責を果たされ、選ばれて東北の彼方、仙台司教区の初代邦人司教として(19411954)活躍されたほか、引退後もキリシタン史研究の筆を休めず、迫り来る死の病床にあって、東北キリシタン史を完結されました。

 さらにクーザン司教による最後の叙階式(明治427月、クーザン司教にとって9度目)で司祭となり、下五島各地で司牧宣教ののち、佐世保市内、三浦町および俵町教会の発展的貢献と、講演と文筆による護教的教会の立場を守る努力を傾けられた脇田浅五郎 ????(資料が消えている)                      

会を擁護するために骨身をけずり、昭和20年(1945年)長崎に帰属して島原、諫早両市の教会を司牧し、さらに横浜司教に祝聖されて5年間(19471951)、敗戦後の日本カトリック教会の復興と発展に大いに寄与されました。これらの両司教の業績は、日本カトリック教会の存続する限り、決して忘れ去られることのない金字塔といえましょう。

 
 

二、パリー・ミッション会による宣教・司牧の時代

(イ)邦人司祭の相次ぐ誕生  プチジャン司教の没後、その後を追うかのように、ローカニュ補佐司教(18841885)も永遠の旅路につかれましたが、明治9年(1876)以来、南維代牧司教でありましたプチジャン司教の後任には、クーザン司教が選ばれ、明治18年(1885)祝聖されて、長崎に着座するに至りました。

 明治21年(1888)南維代牧区は、長崎と大阪に二分さあれるに及び、クーザン司教は、長崎教区司教としてとどまり、九州全域をその管轄教区としていましたが、在位26年間(18851911)に、9回の叙階式を挙行して、30数名の司祭を誕生させています。

 このうち、クーザン司教による最初の叙階式(明治202月)で、司祭となったものの中に、香港留学というよりも、香港流浪の旅に、幾多の辛酸をなめた島田喜蔵師やクーザン司教司式3度目の叙階式(明治 302月)で司祭となり、奄美大島で宣教・司牧に従事すること26年ののち、ローマ教皇庁の要請により、日本人ブラジル移民教化のため、故国日本を去って18年、文字通りブラジル移民の慈愛深い師父の使命に殉じて、彼の地に骨を埋めた中村長八師の業績は、まことに偉大なものでありますう。

 また明治397月、クーザン司教による8度目の叙階式で司祭になった浦川和三郎司教は、下五島、水之浦教会に3年間司牧ののち、30年の長期間(19101940)にわたって、母校、長崎神学校教授の任務に専従し、昭和3年(1928)より12年間を、神学校校長、兼、長崎司教区総代理の重責を果たされ、選ばれて東北の彼方、仙台司教区の初代邦人司教として(19411954)活躍されたほか、引退後もキリシタン史研究の筆を休めず、迫り来る死の病床にあって、東北キリシタン史を完結されました。

 さらにクーザン司教による最後の叙階式(明治427月、クーザン司教にとって9度目)で司祭となり、下五島各地で司牧宣教ののち、佐世保市内、三浦町および俵町教会の発展的貢献と、講演と文筆による護教的教会の立場を守る努力を傾けられた脇田浅五郎 ????(資料が消えている)                      

会を擁護するために骨身をけずり、昭和20年(1945年)長崎に帰属して島原、諫早両市の教会を司牧し、さらに横浜司教に祝聖されて5年間(19471951)、敗戦後の日本カトリック教会の復興と発展に大いに寄与されました。これらの両司教の業績は、日本カトリック教会の存続する限り、決して忘れ去られることのない金字塔といえましょう。

 
 

三、邦人司教区設立・法人司祭誕生

(イ) 早坂司教・長崎に  コンパス司教は長崎における、パリー外国宣教会最後の司教でありましたが、プチジャン司教とその後継司教、および宣教師らの絶大な奉仕と、筆舌に尽くしがたい労苦の伴った働きによって、長崎司教区は信者の数においても、教会の数においても、さらに邦人司祭の努力においても、他の教区をはるかに凌駕しており、パリー外国宣教会による宣教と司牧の当初の目標は、ほぼ達成したものと見て、長崎を邦人司教区とし、日本人司教と日本人司祭らの手に委ねることが、ローマ聖座によって承認されました。

 時はまさに大正から昭和の新しい時代に変わった昭和2年(1927716日。

コンパス司教逝去後11ヶ月目のことでありました。

 昭和21030日、聖ペトロ大聖堂で、時の教皇ピオ11世より、長崎邦人教区の最初の司教に祝聖された早坂久之助司教は、仙台市出身、ローマ、ウルバノ大学に学ばれた日本人最初の留学生でもありました。

 早坂司教は流暢な外国語や近代的センスを駆使して、外交や講演による宣教につとめられるとともに、神学生の近代的教育にも特別に意を注がれました。すなわちマリア会経営の海星中学校に、小神学生を通学させることや、ローマやパリーに、大神学生を留学させることによって、司祭の指導的視野をひろめ、社会における宣教的力を深めることを配慮されたものでありましょう。

 早坂司教はさらに、平戸・下神崎・佐世保・伊王島・久賀島などの近代的教会の建立にも力を尽くされ、教方(カテキスタ)の養成、お告げのマリア修道会の前身ともいうべき女部屋の創設、純心聖母会創立による修道女の召出しと、一般女子教育に絶大な熱情を傾けられたことは、今日の長崎大司教区の教勢拡充の基礎をなしており、教区発展の土台をゆるぎないものにしたことを物語って余りあるものといえましょう。

 早坂司教昭和8年すなわち長崎教区司教として着座されて5年目には病に倒れ、その四年後には教区長を辞任、故郷の仙台市にに引退されるという不幸に見舞われましたが、教区長在位10年間のに、14名の教区司祭を叙階される業績をあげ、引退後も純真聖母会の指導にに貢献され、あまたの会員の成長を見守られたことは衆知の的であります。

 
 

(ロ)神学校移転の小史 

 創設以来60年、神学校舎落成以来50年の歴史を刻んだ長崎の神学校は、場所、健康、教育的諸条件の再検討に迫られ、浦上は本原の丘に、広大な土地を求めて移転することになりましたが、洋風建築の威容を誇る、建坪800坪の新校舎にもかかわらず期待したほどの成果を見ないうちに、昭和5年以来、修道院や神学院の新設をねがって、長崎に 足を踏み入れていたカナダ系のフランシスコ会に、昭和6年、土地、建物ともに譲渡するに至りました

 これは海星中学校に学ぶ小神学生の通学的不便、神学校と司教座聖堂(当時は大浦、現在は浦上天主堂)との遠距離、その他の条件が、折角新築した神学校を手離し、僅か6ヶ年という短命の神学校生活を余儀なくした理由のようで、神学生はまたもとの古巣、大浦の旧校舎に逆戻りする悲運を味わいました。

 昭和8年、東山手のプロテスタント系の東山学院を買収した神学校は、建物の改造や、環境の整備を終えて、新しい気分をそそられながら移転したものですが、何という運命のいたずらか、昭和12年勃発した日支紛争のあおりをくって、国家の思想、政治、教育的要請、軍事的制約をおしつけられ、神学校の自治は、危険にさらされるにおよんで、文部省認可の教育を施す東陵中学校に変身することになりました。

 時は昭和15年、帝国主義はなやかな日本が、架空の歴史を捏造して、紀元は2600年と歌い、こころうかれていた時代だったのです。それにしても、大きな建物と広い運動場に恵まれて、しあわせな生活を楽しんでいた神学生は、束の間の夢を見ていたようなもので、またしても移転の不運なあ泣き、重い荷物や道具を背負って、3度、古巣の旧校舎に舞いもどった次第でした。 

 緒戦のはなばはしい戦果にくらべ、敗色が徐々に濃厚となりつつあった太平洋戦争(昭和1612月、日本の英米に対する宣戦布告)の泥沼の中にあって、日本陸軍は、教会や修道院などの接収に乗り出し、軍事的目的のために、建物や敷地を使用するとの通達を乱発していたものです。

 昭和18年、南山手の幼きイエズス修道会の建物の半分が接収の対象となった機会に、神学生が残り半分の建物に住んでくれるようにとの要望があり、神学生はまた、移転するたびに少なくなる道具を背負って、古巣をあとに、修道院臨時神学校に移り住んだのでした。
 
 

カトリック教報     昭和57101

公教神学校の歩み (四)   長崎公教神学校校長    浜崎 渡

四、終戦前後の神学校と神学生の動向

(イ)中神学校の設置  昭和184月、南山手16番地の幼きイエズス会修道院に、旧日本陸軍砲兵一個小隊と、ほぼ時を同じくして移り住んだ神学生の生活は、わずか一年終わりを告げました。『庇を貸して母屋を取られる』とのたとえで、修道院の1階のみを使用していた軍隊は、陸続として後続部隊を増援させ、2階と3階、それに聖堂や調理室を使用していた神学校全体の締め出しをはかったのでした。

 小神学生は結構な住まいから、またしても古巣の神学校旧社に舞いもどったわけですが、4回目の里帰りでした。昭和154月以来、通学中の東陵中学校が、10分ほど近くなったという便利さを除けば、何一つもうかることはなく、いたずらに狭苦しい思いにかられたものでした。

 加えて、教会、修道会、カトリック系の学校、幼稚園、その他の施設を擁する各教区の、国家総動員法(昭和13年)、国民徴用令(同14年)、戦時非常措置法策(同18年)、学徒動員令(同18年)などに対する苦悩は、到底筆舌には尽くしがたいものでした。

 兵役に服するを余儀なくされる司祭、修道者の数は増え、明日の教会を担うべき神学生の召し出しも困難をきわめつつある折柄、せめて兵役に服するまでの、中学校(当時修業年限5ヵ年)卒業の神学生が徴用にかりたてられるのを防ぐ善後策として、昭和194月、中神学校(現、大学院予科)が設置されました。

 召命の灯を絶やさず、神学生のよりどころを確保する意味において、伝統ある長崎神学校に、第2種専門学校として、文部省認可の中神学校が設置されるに至ったことは、日本天主公教、教区連盟(現、カトリック司教協議会、カトリック中央協議会)の苦心の裁断の賜ものであり、戦時下の難局に処する、かわめて時宜にかなった措置でありましたが、このために神学校旧校舎に、80余名におよぶ小・中神学生を収容することは不可能に近く、神学校の悩みはまことに深刻なものが

ありました。これを見かねた長崎教区司祭顧問会(司教総代理・守山松三郎師)は、司教館3階の一室を、小神学生の寝室にあてることを認め、種々の便宜をはかられました。しかしながら寝室の問題が解決しても、なお足りないものが多く、神学生専用の小聖堂を教室に変更したために、毎日の信心業を、国宝の天主堂行い、食事も朝夕は2回にわけてとるなど、かなりの不自由を強いられました。そのほかに、洗面所やお手洗いの急造に迫られ、配給では足りない食料や薪木の確保に奔走せねばならぬほどの苦難が、毎日のように襲いかかって、息つくひまもないほどでした。しかし、幸いにも、山川、重野、山田、岩永各師の教授(専任)をはじめ、国友、永井両医学博士や、優秀な非常勤講師に恵まれて、地元長崎をはじめ、鹿児島、福岡、四国(現、高松)、大阪、仙台各教区の神学生や長崎市内に居住する聖フランシスコ会、コンベンツアル聖フランシスコ会の志願生50名の学生は、嬉嬉として集まり、明日をも知れぬ命ゆえ、神学校のの勉強など、何の役に立つか、・・・などの失意にかられたり、あるいは、徴兵にかりたてられるのはいつかなどの心の動揺を表にあらわすことは微塵もなく、孜孜として勉学に励む姿勢を、一貫して保持し得たのはまさに新学校生活の中に培われた信仰の賜でありました。

 
 

(ロ)教授・神学生の軍役服務

明治憲法における国民の三代義務は、周知の如く、教育・兵役・納税でありましたし、男と生まれて兵隊にもなれないようでは、不面目のきわみとさえいわれたものでした。戦争が長期化し、戦局が悪化するにつれて、日本政府は軍の要請によって、国民皆兵のスローガンをかかげ、よほどの病者でない限り、ほとんどの若者を戦場に送り続けました。このために、召集令状を受けて応召出征(歴史教科書の検定問題で揺れる今日では、出兵が妥当かもしれません)する教授や徴兵検査後、現役入隊する神学生が急激にふえて、発足当時50名を数えた神学生も、櫛の歯がぬけるように残り少なくなり、授業も休講がちとなって、2学年制の中神学校はまさに風前の灯同然でありました。

 この状態に追い討ちをかけるように、兵役のがれの学生は、徴用令が舞い込み神学校からほど遠からぬ弥永木工場に、終日働く運命となりました。木工場での仕事は魚雷を納める箱づくりと、敵機による爆弾投下の被害からのがれるために、工場を地下に移す穴掘り作業に従事することでありました。空腹と疲労に力の抜けた学生に夜の授業は不可能でしたが、朝夕の信心業は精神の強化に大いに貢献するものでした。

 昭和203月から約半年間働いた時、10名にも充たない神学生は、長崎市民とひとしく運命の原爆の鉄火を浴びて傷つき、徴用行員の任務から解放されましたが、茂里町の兵器工場に学徒動員令で働いていた小神学生6名を失い、重症1名の行方不明の安否をたずねなければならない非情の運命に、幾度か痛恨の涙を呑んだのでした。

 
 

(ロ)教授・神学生の軍役服務

明治憲法における国民の三代義務は、周知の如く、教育・兵役・納税でありましたし、男と生まれて兵隊にもなれないようでは、不面目のきわみとさえいわれたものでした。戦争が長期化し、戦局が悪化するにつれて、日本政府は軍の要請によって、国民皆兵のスローガンをかかげ、よほどの病者でない限り、ほとんどの若者を戦場に送り続けました。このために、召集令状を受けて応召出征(歴史教科書の検定問題で揺れる今日では、出兵が妥当かもしれません)する教授や徴兵検査後、現役入隊する神学生が急激にふえて、発足当時50名を数えた神学生も、櫛の歯がぬけるように残り少なくなり、授業も休講がちとなって、2学年制の中神学校はまさに風前の灯同然でありました。

 この状態に追い討ちをかけるように、兵役のがれの学生は、徴用令が舞い込み神学校からほど遠からぬ弥永木工場に、終日働く運命となりました。木工場での仕事は魚雷を納める箱づくりと、敵機による爆弾投下の被害からのがれるために、工場を地下に移す穴掘り作業に従事することでありました。空腹と疲労に力の抜けた学生に夜の授業は不可能でしたが、朝夕の信心業は精神の強化に大いに貢献するものでした。

 昭和203月から約半年間働いた時、10名にも充たない神学生は、長崎市民とひとしく運命の原爆の鉄火を浴びて傷つき、徴用行員の任務から解放されましたが、茂里町の兵器工場に学徒動員令で働いていた小神学生6名を失い、重症1名の行方不明の安否をたずねなければならない非情の運命に、幾度か痛恨の涙を呑んだのでした。

 
 

カトリック教報    昭和5821日     (第675号)

公教神学校の歩み (七)    長崎公教神学校校長   浜崎 渡

六 戦後復興の長崎大神学校の終焉

(イ)長崎大神学校の閉鎖  世界第二次大戦終結後、半年を経て、国宝の大浦天主堂構内に建つ旧羅典神学校校舎に一年、大村市葛城ヶ丘に設けられた工員宿舎の改造校舎に一年の、営みと歩みを続けた長崎大神学校は、新しい時代の趨勢に抗しがたく、わずか2年の短命に終ることになりました。それというのも、昭和8年以来、

福岡教区内にあって、神学生教育を主事業とするカナダ管区に属する、サン・スルピス会が、天主公教教区連盟(1945年設置、その前身は1941年の日本天主公教団、1951年より、現在の宗教法人カトリック中央協議会と改称する)をはじめ、九州地区司教団の要望と、布教聖省の認可を得て、九州地区の大神学生の教育・養成を担当することになったからでした。

 昭和23年、正月休みを終えて帰校した長崎大神学校の、神学、哲学、予科の神学生全員を前にして、校長里脇師(現・長崎大司教、枢機卿)の告知と訓示がありましたが、これは同時に長崎大神学校の終息を意味するものでありました。「長崎教区としても、伝統あるわが長崎神学校の大神学部の設置が認められ、その存続が恒久的であるよう、最善の努力を重ね、サン・スルピス会の誘致に努めて来たが、思うにまかせず、すべては水泡に帰した。3月いっぱいでこの大神学校を閉鎖し、神学生諸君をそれぞれの教区に帰属させることにするが、4月からは、あるいは東京、あるいは福岡の、どちらかの大神学校に転入がかなうよう、善処することを約束しておく、2年間の生活は苦難と不便にとりまかれていたが、神学生諸君は終始明るく、寸陰を惜しんで勉学に余念がなかった。やがてお互いが、東と西に別れ別れに旅立つことになり、名残つきないものを心に深く感ずるが、新しい主の聖旨を仰ぎ、堅忍不抜の精神のもと、尊い召命を全うすべく、孜々として研鑽に、また修業にいそしむ諸君を、祈りとともに見守りたい・・・」。

 寂として声なく、また涙なすを禁じ得ない神学生一同は、校長霊父の切々として、しかも深い慈愛のこもる告知と教訓を、しかと肝に銘じましたので、3月末の解散、閉鎖の日まで、いささかの動揺も見せず、以後幾久しく思い出の種となるであろう葛城ヶ丘の校舎にふみとどまって、学業を続け、年一年近づく司祭職をめざして、懸命な努力を重ねたことはいうまでもありません。

 昭和23319日、童貞聖マリアの浄配、聖ヨゼフの祝日には、神学生全員、大浦天主堂に赴き、最上級生であり、また最後の卒業生となる浜口貞一、村岡正晴両師の司祭叙階と丸尾武雄、岩崎利夫両師の副助祭(第2ヴァチカン公会議以来、副助祭は助祭職に統合されています)叙階式にあずかり、感涙にむせぶとともに、文字通り、戦後復興の長崎大神学校の栄光輝く一大収束を感じとった次第でした。 ちなみに、長崎大神学校に在籍し、苦楽をともにして、西と東に袂を分かった4教区神学生の数を記せば、次の通り

長崎教区生(朝鮮大邸教区生1名、台湾教区1名を含め)27

鹿児島教区生 5名   

名古屋教区生 5

仙台教区生  1名 で、計38名でしたが、このうち長崎、鹿児島、仙台の3教区生が、福岡サン・スルピス大神学校に移り、名古屋教区生のみが、東京大神学校に転ずることになりました。

 
 

(ロ)福岡サン・スルピス大神学校へ転校した長崎教区生の動静

1948年(昭和234月下旬に、福岡、サン・スルピス大神学校は開校したのですが、現在城南区松山に偉容を誇り、美しい緑の環境に囲まれてゆとりがあり、静かなたたずまいを見せる大神学院とは、大いに異なり、当時、旧訪問童貞会(現・聖母訪問会)修道院のあとを受け継ぎ、福岡小神学校となっていた木造2階建の、うす暗く、狭苦しい校舎に、北は仙台から南は鹿児島に至る各教区神学生や、聖フランシスコ修道会に属する志願生が多勢集まり、ひしめき合う状態での発足であり、騒然とした戦後の混乱が、依然として打ち続く逼迫した時代の誕生でありました。このようなときに物質的窮乏を云々することは、もとより沙汰の限りではありませんが、しかし戦争に敗け、力尽きて降伏して、なお敗戦国の国民としてあしらいに甘んじ、劣等国の神学生としての、精神的圧力を蒙り続けたことは、まことに悲しいことでした。喫煙や新聞閲覧をはじめ、ラジオ聴取、電話による用足しなど、すべてが禁止ずくめであり、日本国家の祝祭日の存在無視はもちろん、さては教会大祝日や日曜日の休み返上の授業続行など、今日の大神学校では想像もつかないであろう試練が、戦場にかりたてられて青春時代を棒にふり、敗残兵の憂目を背負いつつ、神学校に再生の道を求める復帰古参の神学生にまで、及んでいたのでした。今にして思えば、よくもあの時代の苦難を耐え忍んだとの感懐を禁じ得ません。にもかかわらず、わたしどもは、過去の苦々しい思い出に、いつまでもこだわるわけではありません。大浦の旧校舎での窮屈さ、葛城ヶ丘の楽しさ、福岡の息づまる思いのあけくれは、すべてこれ神のみ旨にもとづくところと、素直にうけとめ、神学生時代10有余年の生活に、それぞれの持ち味を生かして、多くのよきものを注入し、提供し、身をもって範を示してくださった教授司祭、在籍の先生方に対する感謝の念を、日に月に新たにしなければならないものと確信しています。


  
   
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